長崎歳時記
踏み絵

「絵踏み、切支丹禁令のことなど」

 なかにし礼さんが「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受賞、久方に長崎の唄が注目を浴びておりますが、「長崎の鐘、長崎は今日も雨だった、長崎の夜はむらさき、精霊ながし」等々六百とも言われる長崎ものの一つに東海林太郎の「踏絵」(昭和十二年)という歌がございます
「何をお泣きゃる長崎娘、花のいのちの切支丹、いとしこひしのエス様と、天国(ハライソ)かけて結ぶ契り」 (佐藤惣之助作詞、長津義司作曲)
 「絵踏み、踏み絵」は「春」の季語でございますが、江戸初期に始まり、一八五七年の廃止まで長崎奉行の下では、毎年正月四日から行われ、とりわけ八日の丸山町の絵踏みは、着飾った遊女らがこれを行い、久米の仙人ならずとも、遊女の素足の脛が拝めるとあまた見物が押し寄せたというのも無理からぬことでございます
 また、丸山遊女が出島や唐人屋敷へ唯一出入りを許された女性たちであったことや、遊女のうちには極貧の生活を余儀なくされた隠れ切支丹の子女も多かったに違いないなどとも思いを致すのでございます
 「絵踏み」という「仕置」に用いられる「道具」である「踏み絵」には、メダリオン(楕円形)、プラケット(矩形)などの聖像が用いられており、県内各地のキリスト教、あるいは切支丹の資料館には大方展示されているものでございまして、絵画も用いられたようでございますものの、その保存性のゆえか不勉強ゆえかその手のものを目にしたことはございません
 さて、ザビエルにより伝えられ、九州では平戸、長崎などから広がった、キリスト教は、外国との交易での便宜的手段としての入信であったり、また当時の一向一揆に見られる仏教の政治、宗教的、軍事的勢力への対抗としての布教許可という意図もあり、その急速な信仰の広がりは、新たな宗教、政治勢力の台頭への懸念を生むところとなったのは想像に難くなく、一五八〇年に大村純忠がイエズス会に長崎、茂木を寄進、その後有馬晴純が浦上を寄進するという動きでこの懸念が現実のものとなるや、秀吉は八七年の伴天連追放令に続き、翌年これを没収、長崎奉行がおかれたのでございます
 ここに、切支丹禁教の流れが始まったのでございますが、九七年には中央(京、大阪)で捕らえた切支丹を長崎に送り処刑(二十六聖人の殉教)しており、(どうということもございませんが、この処刑の三五〇年後の同日が私の誕生日でございます)、徳川幕府もこの政策を継承、家康は一六一二年に禁教令、翌年伴天連追放令を発令して、三七、八年の島原の乱では三万人の信者が殲滅されたと伝えられ、以後は隠れとしての信仰が長崎の各地に継続される事となったのでございます
 例えば、浦上では村内のすべてが切支丹でございまして宗門改めでは聖徳寺の檀家となり、葬式にはお経を上げてもらい、その裏で経消しの祈りを行い、絵踏みにもキリスト像に足をかけ、その許しを願ってコンチリサンのオラショを祈ったということでございます
 司祭も無いままに二五〇年にわたり伝えられたその信仰は、一八六五年に大浦天主堂の神父のもとに現れた浦上の信者たちにおいては非常に正確に伝えられていたとも言われ、一方では既存キリスト教に合流することなく、切支丹のまま後継者の減少の中で消えて行こうとする土俗的独立的「隠れ」の存在もあるのでございます
 いずれにせよ、この歴史は大方「弾圧、殉教、苦難の信仰」という悲劇として語られるところではございますが、長崎くんちの舞台である諏訪神社の建立にあたって、一六二五年当時の長崎にはキリスト教徒ばかりでこれを受ける大工、左官が見つからず、周辺、あるいは佐賀から人を連れて来て仮殿が出来、五一年にいたってようやく正殿が出来あがったという話、またキリスト教徒には天国が約束され、仏教徒、神道信者には地獄が待っているという伴天連画の構図に見られるように、喧伝されてはいないものの、実はキリスト教による過酷な在来信仰への弾圧という史実もまたあったのでございます
 多くの宗教の混在を許容してきた日本の宗教観を否定し、またキリスト教を先兵とするアジア侵略という国際政治情勢の中でこれを禁止し、あるいは、弾圧された在来宗教の仏教、神道勢力がその反動として反撃、弾圧に至ることも状況として十分に理解の届くところでもございまして、現在において語られることの少ない、歴史の一面を見ておくことも必要ではなかろうかと、ここ長崎にあって思うのでございます