長崎歳時記
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 ここ長崎は長崎本線の終着駅、つまり、どん詰まりの地とも思えるのでございますが、鎖国が解かれると間もなく長崎、上海に定期航路が就航、長崎駅から連絡船気分で上海まで、そしてその先に広がる大陸へと繋がっていたのでございます
 陸路での移動中心の時代には長崎にとって上海は東京よりも近い、下駄履き気分で出かける地であったとも申します

 先の戦争で、上海航路の船は触雷などのためすべて失われ、航路も消滅したのでございますが、一九九四年に一時復活、残念ながら利用者の低迷で九七年一月から運休、長崎の沈滞の象徴でもございます

 このように最近でも長崎は、決して行き止まりの地ではざいませんでしたし、鎖国時代には公式に外国に開いた唯一の港でしたから当然に人の流れ、集中もあったわけでございます

 もちろん、鎖国時代に開港場として選ばれたということはそれ自体閉鎖的な地形があって実際、日本の西の果てであることは地勢的な側面からも実感されるところでございます

 同時に、朝鮮半島から長崎県北端の対馬まで海上40キロ、水平線にそれぞれ見通せる距離でありますし、中国南部の福建、あるいは台湾あたりを起点にすれば沖縄、南西諸島から島伝いに九州へ届きますし、対馬海流に乗って北上すれば大方五島列島のいずれか辺りにぶつかり、まずは平戸に着くという感じになろうというもので、大陸、南方から日本にというときにはこの長崎が格好の第一次寄港地となる立地であったとも言えようかと思います

 そこで、平戸にオランダ商館が出来、やがて長崎にこれが移り、出島という人工島にオランダが入り、今の中華街のこれも埋め立てですが新地とその山手の唐人屋敷に中国人が囲い込まれるということになったのです

 そんな長崎の町というのはやはり、外国の文物、あるいは産物の宝庫でありますから、知識欲を持つ者、物欲を持つ者様々の人にとって宝の山であったことは変わりはないわけで、多くの人々が全国から流れ込みました
 結果として、長崎の文物が様々の形で全国に紹介されるところとなり、そのメディアのひとつが「長崎版画」でありまして、これは錦絵版画の一形態ですが、オランダ、中国の文物を素材に、サイズは浮世絵と違って題材ごとに縦になり横になり、あるいは縦横の比率が変わりというのが特徴でおそらく、今で申せば海外旅行のビデオを土産話に見せるとおなじ様な物珍しさがあったものと思います

 俳句の世界でもその地域性は注目を浴びたもののようで、和華蘭などと最近はもうします混血文化やら、必ずしも長崎固有とは言わない長崎周辺あるいは九州にまで拡がるような風習も、長崎という幕藩体制下でのいわば自由港的な性格から多くの人が集まり得た場所が九州の覗き窓としても機能し、これが長崎文化として国内に伝播したのではないかと思うのです

 そこで、大方は今は昔となった地域性の濃い、あるいは歴史性の濃い長崎固有、あるいは固有ではないまでも長崎にちなむさらには少しこじつけた「長崎の季語考」を試みました
 季語の抽出のベースは角川書店の「図説俳句大歳時記」、解説については長崎文献社の「長崎ひとりあるき」、「長崎事典」、よか研究会「長崎今昔物語」など長崎学的文献を参照の上、森利孟の聞きかじりや一人合点を加えたものでございます


   ◆ 新年 ◆

幸木(さいわいぎ)
 正月の食材(大根、鯛、塩鰤、烏賊、干し海鼠(俵子)など)を縄で括って普通は十二本、閏年には十三本(その年の月の数)をぶら下げ竿の両端に裏白(長崎では「もろもき」と呼ぶ)を飾り戸外に吊した正月飾りでございます
 正月中これを切り取って食したもので、寒中の食料保存の工夫でもあったようです
 先般同年輩の方のお話で実際にお小さい頃にはやっていたとのことを伺いましたから、昭和三十年代にはまだ残っていた風習のようであります

ぽつぺん
 びーどろ、ちゃんぽんなど様々に呼ばれ、最近のガラスブームの中で各地で見かけるようになったものの、長崎では大方の土産物屋に並んでおります
 細い管から空気を軽く吸い出し、薄いガラスの底が気圧差によってへこみ、また反りが戻るときに儚く賑やかなチャカポコともペコポンともいうような音を出して遊ぶもので、上手に吹けば(吸えば)連続して鳴り続けるものでございます
 一般に「ビードロを吹く」と表現するようで、新年の遊びとなっておりますが、長崎の方も特に正月の遊びとは思っていないかも知れません

上元祭・元宵
 一月一五日の中国の行事、
 長崎には崇福寺、興福寺、福済寺、聖福寺の四つの唐寺(とうでら)があって、前三寺は唐僧の開山、聖福寺については日中混血の鉄心和尚が開山しております
 福済寺は原爆の戦火で消失したため現在古いものはなにも残っておりませんで原爆被災者慰霊の大観音が建立されております
 この観音様と中町教会とを見通せるというのも、長崎らしさでございます
 さて、この福済寺の上元祭が有名と角川の歳時記にありますが、当地ではジョンガン、ションガンと呼び、この日天から福が下るといって荒神さんの札をもらって帰ったものでございます
 上元では、龍の提灯や、赤い唐蝋燭を飾るという風習があり、最近の長崎の冬のメインイベントとなったランタンフェスティバルは同時季の春節などとも合わせての中国風俗にちなむものということでもともとは新地でのものを拡げたものでございます

骨正月
 二十日正月のこと
 もうあらかた食べ尽くしているはずの幸木に残っている鰤の頭や骨を十九日の夜から煮て柔らかくし、二十日に大根、牛蒡、大豆(節分の豆)を加えて「煮込み」の一皿に仕立て食べ尽くすことから、骨正月と申します
 正月行事は十五日の女正月で大方終わりますので、ここまでするというのは全国でも珍しいかもしれません
 この「煮込み」は塩魚の頭を使うこと、節分の豆を使うことなど塩鰤と塩鮭の違いはございますが、時季と言い北関東の「しもつかれ」に共通するものがあるように思うております

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新年        



   ◆ 春 ◆

長崎の絵踏み   で詳細をご覧下さい
 正月4日からの行事、その詳細は「踏み絵−絵踏み、切支丹禁令のことなど」に詳しくお話ししております
 長崎の町やその周辺での宗門改めは徹底したものでございましたから、長崎抜きに語ることの出来ない季語ではありますものの、切支丹と縁のない大方の地の人々にとっては丸山遊女の絵踏の錦絵を見るなどして、華やかなものとして存外捉えていたのかも知れないのでございます


二六聖人祭
 イスパニア人宣教師ペトロ・バブチスタ等外国人六人、耶蘇会修道士三木パウロ等日本人二〇人が畿内で捕らえられ、長崎で一五九七年二月五日に処刑されたのでございます
 一行は長崎街道を大村まで来て、大村湾を船で渡り、朝方に時津に上陸、隠れ切支丹の浦上村を浦上街道沿いに長崎駅にほど近い西坂(刑場)へ護送され、直ちに処刑されたとあり、長崎で処刑することあるいは晒すことが重要であったように見受けられます
 これら二六人は、一八六二年にローマ教皇により殉教者として列聖され、現在処刑地址には記念聖堂、二六聖人殉教記念資料館がございます

天草四郎忌
 いわずと知れた有名人でもございますが、一六三八年旧二月二八日没
 その終焉の地原城は今は城跡のみが海を臨む崖の上にあり、近辺の城は残らず取り壊され、現在の島原城の築城のために石垣などが利用されたと言われております
 島原の乱では、切支丹三万人が城に籠もり殲滅されたとも伝えられるのでございます

春一番
 日本海に浮かぶ壱岐の漁師に伝わる「春の嵐」ともなる南風をさす気象用語で、日本海低気圧により、海が荒れあるいは東北、北陸でのフェーンなどもこれに伴う現象ということでございますから、気象の急変という漁師にとってはもっとも警戒すべき気象の一つと思われます
 同時に木々の芽が動き出す風でもあるという意味で、一時代を画したキャンディーズの同名の歌にいくらかの語源的視点からの理解を示すこともできるのでございますが、春風に毛の生えたもののごとき誤解はいただけないもので、俳人たるもの時流に流されることなく本意で詠みたいものでございます

凧揚げ   で詳細をご覧下さい
 「たこあげ」ではなく「はたあげ」、長崎各地には様々の凧があるが「はた」は長崎市を中心にしたものでジャワ系といわれ、県内の伝統的な他の凧である唐人凧、鬼凧などは中国系のものと仕分けることが出来ます
 凧揚げの季節はかつては三、四月でございましたが現在は四月から五月にかけて「掛け凧(はた)」とよばれる凧喧嘩が凧揚げ大会の形で行われております
 五月頃に子供の成長を願ってなどの大凧揚げが各地に見られますがが、それとはいささか趣を異にする遊びでございまして、これは別に凧揚げの項をおこして歳時記で詳しく紹介しております

阿蘭陀渡る
 オランダ商館長が江戸に上り、将軍に商取引のお礼言上に伺うという行事
 期間と回数からすると二年に一度ほど、計百十六回行われたとあるが、下関、兵庫間の海路の他は陸路を行き、正月に長崎を発して三月一日の参府というのが大方の日程のようで、長崎の繁栄の源であったオランダ人の道中ゆえの歓送行事や見物風景が賑やかであったようでございます

鶴帰る
 日本での鶴の飛来地は、山口県熊毛町と鹿児島の出水市の二カ所、長崎県は出水の鶴の渡りの中継地となります
 県北の平戸には今も松浦水軍の末裔が殿様でいらっしゃいまして、その松浦資料館を訪れたとき「昨晩鶴が降りて今朝早く飛び立っていきました」という話がございました
 鷹の渡りのコースと比較的似ていて九州本土は平戸辺りから佐世保上空、長崎半島の先端の野母崎を経由するということになるようでございます

俊寛忌
 一一七七年に俊寛の流されたのは薩摩国鬼界が島とされておりますが、長崎港入り口の伊王島も俊寛伝説の地であり、俊寛の墓もございます
 忌日は三月二日とされておりますが没年は七九年と推定という不思議なものとなっております
 さて、なぜ薩摩を長崎にこじつけるかでございますが、一〇世紀のはじめに、菅原道真は太宰府に「流された」わけであり、そう世の中に大きな変化が無かった時代、その先の海を渡るなり、険しい峠を越えるなりしなければたどり着けない長崎から更に海の先の島へ流されるとなればそれは十分過ぎるほどの「流され様」でございますから、ここ伊王島が鬼界が島とされても十分に納得できるというものでございます
 伊王島はかつては炭坑で栄え、長崎から海路二十分余、今はリゾートとして快適なホテルライフを送ること出来る島に変容しており、やがて橋で行き来が出来ることが予定されておりますが、橋が架かっても船で渡る楽しみが残っていて欲しい島でございます

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   ◆ 夏 ◆

隠元忌
 将軍家綱の要請を受けた長崎興福寺の住職逸然が黄檗山より招聘したことで、隠元は一六五四年に渡来、興福寺に依ったのでございますから、隠元さんは長崎にまことにゆかりの深い僧ということが申せます
 長崎には多くの書も残されておりますものの、滞在期間はそう長くございませんで五五年には摂津へ、五八年には山城国宇治に移り、六三年に万福寺を開山、一六七三年四月三日没、京都に黄檗宗の寺を開いたということも重きをおかれる所以でございます


 長崎には唐灰汁(とうあく)粽というものがございまして、作り方は至極簡単、晒しの袋に詰めた餅米を唐灰汁(鹹水)で煮あげて飴色に炊き上げるだけのことでございます
 砂糖などつけて食べるのでございますが、そうして甘くして食べればお菓子の粽、色を見れば台湾料理などで良く出てくる竹皮で包んで蒸した粽ご飯のようで、おそらくこのあたりからそれぞれに分化したのでは無かろうかと思うのです
 ともあれ、この鹹水の軽い硫黄臭のような匂いになれるとなかなかの美味と申せますが、ペーロンでの屈原慰霊の撒き物の粽というのもおそらくこの類のものであったろうと見ております
 ちなみに唐灰汁は中華街の乾物屋で入手が可能、と申しますのも長崎名物のチャンポンの麺はこれなしには存在し得ない、唐灰汁を使わない麺はチャンポンの麺とは言えないからでございます
 追加:粽に関して、サライ2000/05/18号によれば、山形県の山村、温海町には、笹巻という粽があって、木灰の灰汁で茹であげるそうで、楢の灰を使うのと美しい黄金色の粽に仕上がるとありました

ペーロン   で詳細をご覧下さい
 ペーロンは相生にもございますがこれは長崎から移転したもの、沖縄のハーリーも同様起源のものとは申せ、ペーロンと言えば長崎のものでございます
 長崎は春は凧揚げ、梅雨が明ければペーロン、夏の終わりには精霊船で爆竹を鳴らし回って、やがておくんちと長崎は年中遊びの種が尽きないところでございます
 ペーロンについては歳時記で別に項を起してお話をしております

四万六千日
 浅草の観音様が有名中の有名ではございますが、長崎のきよみずさんも歳時記に載ってございます
 清水寺が八坂神社の神宮寺のような形になっておりまして、参道の上と下とになってひとまとまりでございます
 やはり、浅草と同じに酸漿市が出るのも季節でございます

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   ◆ 秋 ◆

長崎忌 (原爆、広島忌とあるが)
 広島が八月六日、長崎が九日の被爆でございまして、九日には第一目標とされた小倉が雲に被われていたため長崎に目標変更、雲の切れ目から見えた長崎に原爆が投下されたといわれております
 広島と長崎は造船などでの関連が多くございましたので、六日の被災から逃れて長崎に移り、再び被爆したという人も多いと聞いております
 いずれにせよ長崎忌は真夏の日盛りの中での平和祈念祭で、正面に平和記念像が位置する旧刑務所(原爆で礎石のみが残っている)跡の平和公園に多くの人が祈りを捧げるのでございます
 今もこの近辺は放射線数量が高いと言われておりますが高級住宅地でもあり、原爆資料館、永井隆記念館(改築)、浦上天主堂など周辺に原爆関連施設、それに数多くの土産物屋がございます

からすみ
 長崎のからすみは、従来の鰆から鯔の卵に変えて製法を工夫したことで長崎名産となり高い評価を受けておりますが、この製法を工夫したという高野屋は今も続いております
 観光土産物店では鷹の爪ほどの「からすみと称するもの」を一〇〇〇円以下でも売っておりますが、やはりからすみというからには大ぶりな「唐墨」の様子のもので、一腹一万円くらいのものでなければご満足いただけないのではと思いますが、薄く切って食すものでございますから、お値段なりの食べ甲斐のある品でございます
 お茶事の懐石では必ずと言って良いほど登場するものでございますからそんなこともお値段を上げているのかも知れませんが、まあ人手ばかりを食う手間仕事がからすみ作りでございます
 元々は卵の熟する秋から冬に製するものということで秋の季語となっておりまして、いまでは塩蔵冷凍した原料は年中切れることはないものの、生ものの天日干しでございますから、あまり気温が高いといくら塩漬けのものでもうまくいかないことで秋の季語で定めてよろしかろうと思っております

おくんち   で詳細をご覧下さい
 旧の九月九日の重陽の節句から「くにち」やがて「くんち」ということで、今は季節の重なる十月九日を最終とする七日からの三日間の祭礼とそれに伴う奉納踊りがおくんちの中心でございます
 神事との重なりのものでございますから、前後様々の関連行事がございまして、六月の一日に小屋入りと称する参内と稽古始めを長崎では季語として扱うとお諏訪様の上杉宮司の話もございますが、全国区になれなければ季語と申すわけには参りませんで、小屋入りを詠み込んだ名句の輩出を長崎の俳人に期待したいものでございます
 唐津にもくんちがございますが、長崎くんちは寄せ集めの奇妙な調和が味でございます

精霊流し   で詳細をご覧下さい
 八月十五日の長崎の精霊流しは中国盆の影響を受けて爆竹で賑やかでございます
 初盆の御霊を精一杯に大きな舟で送るのが長崎の心意気、町内などの何家族かが持ち合いの「もやい舟」もございまして、親類縁者、友人が寄り合って「どーい、どーい」の掛け声(なんまいだの念仏の訛と申します)とチャンコンチャンコンの鉦と銅鑼の音、さらに爆竹と重なってそれは賑やか、華やかでございます
 精霊流しは一般には灯籠流しとしてひそやかに行われることが多くございますが、京都では大文字の送り火、能登の切り子灯籠、津軽の佞武多(ねぶた・ねぷた)の様に盛大なものもありますのはご承知のとおりでございます
 分けても長崎の精霊流しは「盆祭り」とも呼ばれ、これほどに賑やかなものは類を見ないと言えましょうが、しかし、やがて哀しきということはいずこも同じでことでございまして港の流し場から流す、実際にはそこで廃棄するというのも時代なのでございます

媽祖祭
 船の守護神媽祖を祀る行事で八月二二日が祭日でこれもお盆の頃でございますが、本来旧暦三月二三日のものでございます
 長崎では「ぼさまつり」と呼ばれ、崇福寺の媽祖堂に山羊、豚を供えての仏事がございます
 来崎の唐船の乗組員は皆唐人屋敷で暮らしますので、唐船に祀った船玉である媽祖神は停泊中この媽祖堂に移して奉仕したといわれておりまして、これが今に媽祖行列として伝わっているようでございます

蘭盆(中国盆)   で詳細をご覧下さい
 旧暦七月二六〜二八日の行事で、中国式のお盆の行事
 無縁仏もあわせて祀る施餓鬼を含む行事とされ、長崎の崇福寺に国内の福州人の多くが集まる行事であるため、同胞間のお見合いの絶好の機会としても賑わうとも言われております
 日本人にすれば珍しい中国盆は観光の対象でございますが、宗教行事でございますから傍観者とはいえ、それぞれが信仰への敬意をもつべきこと、国内のあらゆる祭礼行事での余所者の傍若無人の押し掛けよう同様に心すべき事申すまでもございません
 宇治の万福寺でも日時を異にして行われると伺っております

鷹渡る
 鷹と申しましても小型の、サシバの渡りが顕著な群をつくりますが、この南下する鷹の観察地として、長崎では佐世保郊外の烏帽子岳が有名で、一〇月下旬頃が観察時季でございます

ぼうぶら
 長崎では南瓜を「ぼうぶら」と呼ばれる方がまだいらっしゃいますが、これはポルトガル語の「アボボラ」の訛ったものといわれております
 かぼちゃも「カンボジア」の訛と申しますからそれよりも遠来の言葉ということでございましょう
 当然のことながら、季は南瓜と同じく秋ということでございます

隠元豆
 隠元和尚が伝えたことから名付けられたとされる豆、ということで長崎にちなむ豆ということにさせていただきます

秋の釈奠
 釈奠(せきてん)は春と秋に行われますが、長崎の孔子廟では秋のものが盛大で新地在住の華僑らによって執り行われておりますので、供物も中国式に豚などが供えられ、国内でもっとも美しく装飾された孔子廟で国内の他の廟(東京の湯島聖堂、栃木足利の足利学校内の孔子廟、佐賀の多久の孔子廟など)の釈奠とは趣を異にする華やかさがございます

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   ◆ 冬 ◆

鯨取り
 古式捕鯨は、紀州、土佐、平戸と鯨を求めて漁場を変えてまいりましたので、長崎固有のものとは申せませんが、最後まで残ったのは長崎という意味で長崎の季語ということにさせていただきます
 長崎では今でも正月のご馳走として、あるいは春の筍と取り合わせてなど季節季節で鯨が登場し、鯨専門店もございます他、折々には魚屋の店頭に鯨が並ぶのでございます
 また、おくんちの出し物として「鯨の潮吹き」が万屋町により奉納されるのも、鯨漁にちなんでのものでございます

長崎の柱餅
 新年に向けて搗く餅の終いの一臼を大黒柱に付けて祭るという習俗
 正月の一五日頃、とんどの火で焼いて食べるとされ、鏡餅、鏡開きに準ずるものと見ることが出来ましょうが、今この習慣はすたれて、大方ご存知の方もいらっしゃらないようでございます