黄八の変わり織りのようにみえるのだが?
帯も派手目のものを羽織で隠すとちょうど良い
小地谷縮み(千筋)
花鳥風月柄白地羽織
模様はかように縦糸の黒の絣で織り出されています
霰小紋の一重 : 一寸ピンぼけもあって、遠目には無地のごとくです
2015 MAY
仕立て下ろしの大島・縫いのツボツボ一つ紋
2013 JUN
長着は紺のお召し、羽織は鬚紬
2013 Mar
長着は2011・初夏と同じ米沢紬、ただしこちらは袷仕立
羽織は銀鼠の結城
羽織紐をUPにしてありますが、同じ組み方のものを色違いで
2012 Nov
着物で身延山まで往復400km余を運転した。
そんな>ときにこの「水屋着」と称する作務衣風の筒袖の上っ張りが重宝する。
いえ、実際水屋仕事が必要なときにも重宝しますのですが。
2012 Oct
夏の薄物です、一シーズンでそう何度も着ないのですが、かといって
普通の単衣を真夏に着るわけにも参りません、面倒なことで・・・
ただし、最近のクールビズに便乗して羽織は着ません、持ちませんで平気な顔をしております、
クールビズと言って、ビジネススーツという一種のフォーマルを着崩すなら、
和服がそうであっていけないわけがない・・と思ってます
2012 Aug
これもまた、母の長着だった、毘沙門亀甲の白大島、
多聞庵主としては是非とも着なければというアイテムです
もちろん、あれこれと剥ぎをいれてサイズを良い塩梅にして、単衣で仕立てております
長着は2枚下の画像の銀鼠の綸子無地、
帯は女帯を幅11cmで仕立て直したやや広めのもの
2012 May
折角だからと温めていたものを
ことのついでと、下の綸子の仕立てと合わせて仕立てて貰った。
3つ紋を染め抜いて貰っている。下の藤色無地に似た
色合いだが、近づけば鮫小紋だと分る、それが小紋のよいところ
2011年末
ちょうどその方をお茶にお呼びする予定があったのでその時までにと大慌てで仕立てさせた
金糸銀糸で裏千家のツボツボを入れて、裏は一寸どころでなく派手なものになってしまったが、色見本で合わせたときは品が良い感じと思っていたのです
2011 初夏
米沢お召し紬の長着 お召しの単衣羽織
当然自前の紋付羽織袴なわけで、花嫁の父をやっております
6月とはいえ、今時のホテルだと袷でも何の問題もないのです
2010 JUNE
上物の黄八丈、今やあまり無い男ものです
鬚紬の羽織
紬の長着
鉄色結城
昔母親が仕立ててくれたもの、随分長い間一張羅として、
そして普段着として着て何度も洗い張り、仕立て直しをした。
しかしとうとう生地の性が抜けてきてこれ以上は着られなくなった。
最後の洗い張り、仕立て直しをして、箪笥の底に仕舞った。
家族にはこれを着せて送ってくれと話してある。
紺地の紬、胴単衣に仕立てて、裏地はぼかしを入れた鬱金です
’09
色紋付
初釜に出るとなると色紋付くらいはと誂えた色紋付
大仰なのはいやなので縫い紋を小さく一つ入れてます
袴は、紬地のもの
2002年に作った染めの三紋、引き染めで染めさせたと呉服屋が結構自慢してました。
平成15年癸未新春の普段着です
1991年春、米沢で一疋の反物に出会ったのが縁で
「きもの」をよく着るようになりました
この羽織がそのとき求めた米沢紬、機械織100亀甲、一疋もので、
店員がお対にしても良し、袷と単衣の二枚にするも良しなどという
話をしてくれたのが面白くて着物にはまるきっかけになったという因縁物、
もう10年以上着ていることになるわけです
長着は、上にある「紬の長着」です
2002年 10月24日
千葉には木綿の織屋がわずかながら残っていましてこれは、そのうちの一つ「館山唐桟」です
柔らかい肌触りで、ちょっと縦縞が粋な雰囲気があります、ただし生地が弱いのが難点です
2002年夏の終わりの羅です
8月25日
夏結城の羽織に、琉球上布の長着
普段着というわけには参らない代物で、お茶会から帰っての撮影です
それぞれ、シャリ感があって夏が終わるのが惜しい気分です
2010年に
この羽織は仕立て直して連れ合いのものになりました
どうも、仕立てた寸法が気に入らなかったのです
写真の琉球上布の模様でこのページの壁紙ができています
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以下、2000年頃、長崎在住の頃です
袷を引張り出しました、長崎も冬です
11月25日
どこのか知りませんが大島風の鼠の亀甲
袷には早いと、このところ着ていた単衣の真岡木綿
さすがにそろそろ洗濯です
単衣の大島、織がすこし網代風にみえます
実は久しぶりに娘が東京から遊びに参りました
素足に鴉表の雪駄と思っていましたが結局足袋を履いて食事に
長崎時代 2000 SEP 17